5 青春のひとこま 昭和48年(1973年)~昭和58年(1983年)
青春のひとこま
昭和48年 (1973年) 4月~昭和59年 (1984年) 4月
社会人に成ってから妻帯までを物語る
1975.06.08 大阪城公園で投球練習をする20歳の私
目次
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一 赤崎建築事務所時代 昭和48年 (1973年) 3月~昭和54年 (1979年) 5月
VAN は、憧れであった
高校生の頃(1970年~1972年)、VAN が 流行った
親父に、「学生服がある!」と、ファッションには縁のなかった私
クラスメイトのアイビールックが羨ましかった VAN は 憧れであったのだ
走れ歌謡曲
中学生の頃、果せなかった 深夜放送を聴いてみたい・・という願い
社会人に成った19才に叶えたのである
心の旅
昭和48年(1973年)7月 親友長野と二人、夏休みは旅をしようと謂うことになった
社会人として己が稼いだ金で行く、記念すべき初の旅行である
チェリッシュの悦ちゃん
親友・長野と二人、専らの関心事はレコードを聴くこと
頑なまでに チェリッシュ一つ の私に
「是、聴いてみ いいものばかりやから」と、親友・長野がLPレコードを持って来た
見れば、赤い鳥、小椋佳、サイモン&ガーファンクル
男の人が そんな事してはいけません!!
「私が遣りますので、そこへ置いといて下さい」・・と、私は、叱られてしまったのである
今なら 時代劇の一場面ですら 存在しないであらう台詞である
老いた母ひとり 残して行かれない
「ありがとう、浜村淳です」 と、いう ラジオ番組があった
投稿された体験談を読みあげながら、曲を流す
いつもの様に女性からの哀しい体験を読みあげる
七五調の流暢な語りに、リスナーは、心動かし、泪し、聞き惚れるのである
私も聞き入っていた
体験談を読み終える頃、曲のイントロが流れる
そして 私の心に染入ったのが、この曲なのである
巨人の星
大土に誘われて水阪と共に、府庁主催のダンスパーテイに参加した
出遭い を期待しての事である
旭区 区民ホールに、若い男女が集まった
果たして、私のパートナー 一番の美人であった
古いお寺に ただひとり
私は、どうしようもなく落ちこんでいた 鬱状態と謂うのだそうな
原因は恋人が出来ない所為である
とにもかくも、深刻な面持ちであった
「独りなんだ」 と謂う、訳の分からない事で悩んでいたのである
若い頃
花のようにひそやかに
私の好きな女性像である
そんな娘はきっと存る・・・
りんご の 写真
昭和49年(1974年)6月2日の日曜日
吾、願いが叶い
デスク前の壁一杯に、貼り付けることができたのである
19歳の私
「こんな美人の恋人が欲しい」
・・・そう思ったのである
青春の ひとこま
若き日の思い出
小説を読むことなぞ、ほとんどなかった私
しかし、19の私がどうしたきっかけかは忘れたが、この小説と出遭った
おそらく、この小説と出遭うべく環境が私のなかに整っていたのであらう
それはやはり、出遭うべくして出遭ったのである
俺は男だ
彼女等、眼下の私を認めたらしい 通り過ぎたる直後
「ちょっと、あの人、似てへん」
「森田健作?」
「うん」
「似てる、似てる」
そして、彼女等の一人が叫んだ
「森田健作さーん」
青年は夢を追いかけろ
金を追いかける人生はつまらん 夢を追いかけろ
貧乏しても、納得した人生をおくれ 吾々はそういう人生に憬れた
歴史との出逢い
ウェートレスの女性の 初めて聞く、シャキシャキした歯切れ良い言葉づかい
それは、私には新鮮で心地良かった
「江戸っ子の気立ての良い女」 彼女みたいな女を、謂うのであらう
羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話
午後三時は小休止 頂き物の羊羹が御茶うけである
皆して、一本半を食べた
先生は所用で、後で食べるとの事
「しめた」・・と
此ぞと、皆の心に茶目っ気が湧いたのである
10時になったら、帰ります
「おとうちゃん、おそいな」
なんとなく、もの哀しい想いで以て 母と二人、テレビを視ていた
親父は未だ、帰ってこない
「お母ちゃん、もう寝たらええのに・・」
「お父ちゃんは、泊まって来ることは いっぺんもないんで」
「なんぼ酔うちょっても、帰ってくるんで」 ・・と
酔うた~
車酔いならば、止めて降車すれば済もう 然し、舟はそう言う訳にはゆかない
ひっくりかえって、のたうちまわろうが、いっこうに構わず、舟は海の上で揺れているのだ
帰港するまでの3時間というもの、まさに地獄の苦しみであった
「もう、二度と舟には乗るまいぞ」
想い出の セレナーデ
2階ホールに、音楽のジュークボックスが有った
私は、初めて、ジュークボックスサウンドを聴いたのである
ヘッドホーンから大音量の曲は、想い出のセレナーデ
天地真理 が唄う この曲に、感動したのである
大東京に居るという興奮から 感傷的な心持に成りかけていた私の心に響いたのである
「天地真理、いいな」・・と
キック の 鬼
ウインドーの外に、野郎3人連れが通りかかったのである
その中の一人が、女性の存在に気が付いた ウィンドー越しに、その女性に目をやっている
チョビヒゲをはやした小柄の男・・その姿、街のお兄さん風に見えた
ところが、なんと それは あの 「キックの鬼 沢村忠」 だったのだ
私にとっては ヒーロー その人也である
仲 間 達
「みんな集めて野球しようか?」
「それええなぁ」
昭和49年(1974年)秋、社会人に成って2年目
その頃、体を鍛えよう・・と 偶にであるが、親友・平野と二人、大阪城にて、ジョギングをしていた
大阪城の外堀を、一周するコース
何背、20歳・・・元気はあった
ジョギングの後はキャッチボール・・と、野球少年世代の吾々
腕に覚えはある キャッチボールだけでは、もの足りなかったのである
小さいけど 魂 こもってはる
オッ ! OM-1でんな 小さいけど カッコよろしいな この135ミリは・・エッ、200・・これで
うちの仏はんは 小さいけど 魂 こもってはる ほんまやったら 国宝なんやけどなぁ
・・・昭和49年(1974年) オリンパス一眼レフカメラ OM-1 の TV・CMである
隣りの あの女性(コ)
昭和50年(1975年) 3年目の年明け早々
「あなたが、いい・・と言っている女性(コ)が居るのよ」
「ほんとうですか」
「ほんとうよ」
「誰ですか?」
「隣りの会社の、可愛い女性(コ) よ」
「隣り・・の可愛い・・」
「エー、ほんとうですか ほんとうに、あの女性(コ)ですよね?」
君達がいて 僕がいた 「京橋はええとこ」
第一回MA会を京橋で行った
グランシャトー通りの喫茶店に集合した吾々
そこで以て
幹事の任期を半年とし 夏の旅行 忘年会並び新年会を各々の幹事が行うと決めた
決めた後は愈々親睦会 夜の京橋 いざ、きょうは何処へ行こうか
「 お前、変わってるなあ 」
「 へえー、お前 こんな本読んどるんか 」
「 そうや、お前の 『 北一輝 』 に倣ったんや 」
「 ほんまかいや、それにしても、幸徳秋水とはな 」
叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・
親友の水阪 「(結婚)決めようと思っている」 と、云う 鹿児島まで、付き添って呉れと云う
吾々は、春分の日の3連休 九州鹿児島まで旅行する事に成ったのである
あの時の少女の言葉 忘れないで存る
「叶うものであれば 叶えて欲しい・・」 の エピソードである
ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか
「ナンムミョウホウレンゲキョウ」 仏壇の前に坐る朋友・長野
凛とした大きな声で、大真面目、一心に唱えている
後ろで傍観した私 その姿に、何かしらん、奇異を感じた
「ママ、可哀そう」
ママさんの態度からして、常連の上得意さんであらう
驚いたことに、日本髪を結った芸者二人を引連れている
此処は吾々も愉しむ普通のバースナック、どう見てもミスマッチであらう
芸者引連れての豪遊で、上機嫌の旦那さん、それはもう有頂天である
彼に促されて芸者が、唄い出した
君達がいて 僕がいた 「スマン スマン」
昭和51年(1976年)、MA会・夏の旅行は若狭・竹野
私、大土、水阪、寺内、梶、西村、山下、
更に 高田、山下の兄(双子)の新メンバーも参加して総勢9名 車2台に分乗して行くことになった
8月13日、集合時間は午後11時、集合場所は都島工業高校の正門前とした
お前、屋根伏かいとるやないか
11月12日、合格発表の日である 私は一人、大阪府庁へ向かった
足が重くて、気が重くて、・・・体が前に進まない
合格していた
もう・・・ジタバタせずに泰然としておればよかった
手編みのプレゼント
あの 「可愛いい・・と、想った」 岡田奈々
新たな想いで 当時を振り返って観ると
それはもう なんと、綺麗な 少女 哉
そう、想った、私である
運転免許を取った理由はバスが来たからです
斯くして私は、免許を取った
若し、あの時 バスが来なかったら、斯の物語が起きなかったら
免許を取ることは無かった・・・かも知れない
然し、バスは来た
人生・・とは、そういうものかも知れない
「 魅せられて 」
私は、四条河原町の交差点で信号待ちをしていた
横断歩道を渡って左方向へ行けば京都市役所へ辿り着くと、そうヤマ勘したのだ
然しそれは、渡らずともよいものを、わざわざ渡ろうとしていたのである
信号が青に変わり、横断歩道を渡りかけた時
向う側に、一際印象の女性 の存在に気が付いたのである
二 ジェネラルドラフティング時代昭和54年 (1979年) 10月~昭和59年 (1984年) 4月
帰り途は遠かった
先輩・鈴木さんの運転する車の後部の座席で、一人座していた私
一日の疲れと、車酔いとで、横たわって 滔々眠って仕舞った
人 間 革 命
昭和50年(1975年)ころ 「人間革命」 と謂う 文言を知った
創価学会に入会した、真友・長野はこの「人間革命」に感銘したと謂う
一生懸命 自分を磨いていた私
当然の事ながら、「人間革命」 の文言の響きに興味は向いた
けれども、勉強し、深く研究する迄には 至らなかったのである
私には、夢中なるものが、他にあった
「結婚式に出席しない」 は、俺の主義
あいつ、「 俺の主義 として、行かへん 」 言うて、断ったらしい
コートにかける青春
親友・大土が、テニススクールに入会したと云う
中学時代は軟式テニス部の私、腕には覚えがあった
「スクールには若き女性も おおぜい参加するだらう ひょっとしたら出逢いがあるかも・・・」
それなら 吾も続かん・・と
蒜山高原
300ヤード は、男のロマン・・・と
得意のドライバー、おもいっきり叩いた
なんと
記念すべく第一打と、私が渾身の力でもって打ち放ったボール
大きくフックして、コース境の樹木を越えて、遥か彼方の森の中へ
「フアーーー」
何もあれだけ飛ばなくとも・・よからうものを
二番手は友・寺内
普段は左利きの彼、然しゴルフは別と不慣れな右利きで構えている
その実力の程は、昨日のミニコースで確認済みである
不安の中、果して・・・
ドライバーを振り下ろした
「ファーーー」
続いて
親友・大土
「ファーーー」
・・・
キャディさんの顔が真っ青になっている
青雲の涯 遙かなる想い
「今週の土曜日、(ゴルフの)打ち放し、に行こうか」
「行こう・・で、何処へ行く」
「やっぱり、ミニコースにしようか」
「エエよ、で 何処のミニコース・・花園か?」
「何処でもエエよ、白山でも、住之江でも」
「土曜日の午後は、住之江は混んでるかも知れんな」
「白山でも、エエよ」
「・・マ、土曜日に決めヨ」
「ん、出かける時間は金曜日に電話するワ」
「そうしてャ 待ってるワ」
と、土曜日二人してゴルフをすること、約束したのである
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5 右翼青年 昭和49年(1974年)~
に続く